北欧神話のヘルは、ロキの娘である存在の名前であり、彼女が治める死者の領域を表す名前でもあります。
『スノッリのエッダ』では、ヘルはロキとアングルボザの娘として生まれ、オーディンによってニヴルヘイムへ送られました。そして、病気や老衰で亡くなった者たちの行き先を定める役割を与えられます。
ヘルと聞くと、キリスト教の「地獄」を思い浮かべる方もいるかもしれません。しかし、北欧神話ではヘルへ行く死者が全員罪人というわけではありません。戦場で亡くなった者が向かうヴァルハラやフォールクヴァングとは、死に方によって異なる行き先として描かれています。
この記事では、女神ヘルの誕生と姿、死者の国ヘル、ニヴルヘイムやニヴルヘルとの違い、バルドルをめぐる物語、ラグナロク後まで、原典で確認できる内容を中心に解説します。
北欧神話のヘルの基本情報

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 古ノルド語 | Hel |
| 名前が指すもの | ロキの娘ヘル/ヘルが治める死者の領域 |
| 父 | ロキ |
| 母 | 巨人女性アングルボザ |
| きょうだい | フェンリル、ヨルムンガンド |
| オーディンから与えられた役割 | 送られてきた死者の行き先を定める |
| 向かうとされる死者 | 『スノッリのエッダ』では病気や老衰で亡くなった者 |
| 関係する場所 | ニヴルヘイム、ニヴルヘル、ギョッル川、ヘルへの道 |
| 関係する神話 | バルドルの死、ヘルモーズの旅、ラグナロク後の世界 |
ヘルという一つの言葉が、人物と場所の両方を指します。そのため、文章の文脈によって「女神ヘル」なのか「死者の領域ヘル」なのかを見分ける必要があります。
ヘルという名前の意味

古ノルド語のHelは、隠す、覆うという意味につながるゲルマン語系の言葉に由来すると考えられています。「隠された場所」「地下の世界」という意味で説明されることもあります。
英語のhellも同じ語源を持つ言葉です。ただし、語源が共通していることと、北欧神話のヘルがキリスト教の地獄と同じ場所であることは別の話です。
北欧神話のヘルは、死者の行き先の一つです。罪人だけを永遠に罰する場所として統一的に描かれているわけではありません。
ロキの娘として生まれたヘル

『スノッリのエッダ』では、ロキとヨトゥンの女性アングルボザの間に三人の子が生まれたと語られています。
- 巨大な狼フェンリル
- ミッドガルドの大蛇ヨルムンガンド
- 死者を治めるヘル
神々は、この三人が将来大きな災いをもたらすという予言を知ります。オーディンは三人を引き離し、ヨルムンガンドをミズガルズを囲む海へ投げ入れ、フェンリルを神々のもとで育てた後に拘束しました。
ヘルはニヴルヘイムへ送られ、病気や老衰で亡くなった者たちを受け入れ、それぞれの居場所を定める権限を与えられます。
三人のきょうだいは、ラグナロクにも深く関わります。フェンリルはオーディンと、ヨルムンガンドはトールと戦い、ヘルのもとにいる者たちもロキの軍勢に加わると語られています。
ヨルムンガンドの誕生とトールとの戦いは、以下の記事で詳しく解説しています。
女神ヘルの姿と館

『スノッリのエッダ』では、ヘルの体は半分が青黒く、もう半分が人の肌の色をしていると説明されています。翻訳によっては「半分が黒、半分が肉色」「半分が死者のような色」と表現されます。
この描写から、現在の絵画やゲームでは、ヘルが生と死の二つの姿を持つ女性として描かれることが多くなりました。
ヘルの領域には高い壁と大きな門があり、館や道具にも不穏な名前が付けられています。
| ヘルの持ち物・場所 | 古ノルド語名 | 名前の意味・代表的な訳 |
|---|---|---|
| 館 | エーリューズニル(Éljúðnir) | みぞれや嵐に結びつく名と解釈される |
| 皿 | フングル(Hungr) | 飢え |
| ナイフ | スルト(Sultr) | 飢餓 |
| 男の召使い | ガングラティ(Ganglati) | 歩みの遅い者 |
| 女の召使い | ガングロト(Ganglöt) | 歩みの遅い女 |
| 敷居 | ファッランダ・フォラズ(Fallandaforað) | つまずきの障害 |
| 寝床 | ケル(Kör) | 病床 |
| 寝台の飾り | ブリーキャンダ・ベル(Blíkjandaböl) | 輝く災い |
カタカナ表記と訳語は、翻訳書によって違います。
これらの名称は、病や衰え、動きの止まった状態を思わせます。ヘルの領域は、炎で罪人を焼く場所として描かれるよりも、生命の活動が弱まり、静止していく世界として表現されています。
死者の国ヘルへ行く人

『スノッリのエッダ』では、病気や老衰で亡くなった者がヘルへ送られると説明されています。
これは、病死や老衰が罪として罰せられるという意味ではありません。北欧神話の死後世界には複数の行き先があり、戦場で亡くなった者と、それ以外の死を迎えた者が分けて語られているのです。
| 死後の行き先 | 主な死者・特徴 | 治める存在 |
|---|---|---|
| ヴァルハラ | 戦死者の一部。ラグナロクへ備えるエインヘリャルとなる | オーディン |
| フォールクヴァング | 戦死者の半分をフレイヤが選ぶと語られる | フレイヤ |
| ヘル | 『スノッリのエッダ』では病気や老衰で亡くなった者 | ヘル |
この表も、北欧の人々が共有した一つの完成した教義を示すものではありません。『詩のエッダ』、スカルド詩、サガなどには異なる死後観が残されており、死者の行き先をすべて三つに分類できるわけではありません。
また、「死んでヘルへ行く」という表現は、特定の館へ入るという意味だけでなく、単に死ぬことを表す言い回しとして使われる場合もあります。
ヘルは北欧神話の地獄なのか

ヘルは、英語のhellと語源的なつながりがあります。そのため、日本語でも地獄と訳されることがあります。
一方、北欧神話のヘルに向かう死者は、すべて悪人とは限りません。病気や老衰で亡くなった人も含まれます。ヘル本人についても、死者の罪を裁き、拷問する悪魔のような役割は原典に記されていません。
『巫女の予言』には、偽りの誓いを立てた者や殺人者が苦しむナーストレンドの館、死者の体を傷つけるニーズヘッグなどが登場します。こうした刑罰を思わせる場面はありますが、死者の領域ヘル全体と同じものとしてまとめると、原典にある複数の場所や表現の違いが見えにくくなります。
ヘルは怖い姿を持ち、死者を手放さない厳しさも見せます。しかし、キリスト教の悪魔や地獄の支配者をそのまま当てはめることはできません。
ヘル・ヘルヘイム・ニヴルヘイム・ニヴルヘルの違い

北欧神話の死者の世界を調べると、似た名称が複数出てきます。
| 名称 | 原典と現在の解説での主な使われ方 |
|---|---|
| ヘル | ロキの娘である存在の名前。死者の領域の名前としても使われる |
| ヘルヘイム | 現在の解説や創作作品で、死者の領域を分かりやすく表す名称。エッダでは主に「ヘル」と呼ばれる |
| ニヴルヘイム | 霧、冷気、氷に結びつく原初の世界。フヴェルゲルミルがある |
| ニヴルヘル | 『詩のエッダ』にも登場する、下方の死者の領域に結びつく名称 |
『スノッリのエッダ』では、ヘルがニヴルヘイムへ送られたと語られます。この記述から、死者の領域ヘルはニヴルヘイムの中にある、または二つが重なっていると解釈されてきました。
別の箇所では、悪しき者がヘルからさらにニヴルヘルへ下るとも説明されています。『詩のエッダ』の「ヴァフスルーズニルの言葉」では、ニヴルヘルは九つの世界の下方にある死者の場所として登場します。
原典には、四つの名称を境界線で分けた共通地図がありません。すべてを同じ場所として置き換えることも、完全に独立した四つの国として固定することも避けた方が正確です。
ニヴルヘイムの天地創造、フヴェルゲルミル、ニーズヘッグについては、以下の記事で詳しく解説しています。
ニヴルヘイムとは?北欧神話の霧と氷の世界・ヘルとの違いを解説
ギョッル川の黄金の橋とヘルへの道

死者の領域ヘルへ向かう道は、バルドルの物語の中で描かれています。
バルドルが亡くなると、神々は彼を連れ戻すため、ヘルモーズを使者として送りました。ヘルモーズはオーディンの馬スレイプニルに乗り、暗く深い谷を九夜進みます。
やがてギョッル川へたどり着き、金色に輝く屋根を持つ橋を渡りました。この橋は、古ノルド語名からギャッラルブルーと呼ばれています。
橋を守る女性モーズグズは、ヘルモーズに名前と出自を尋ねます。前日には大勢の死者が橋を渡ったのに、生きているヘルモーズ一人の方が大きな音を響かせ、死者の顔色もしていなかったからです。
モーズグズは、バルドルが橋を渡ったことを伝え、ヘルへの道は下方と北方にあると教えました。その先でヘルモーズはヘルの門を飛び越え、館にいるバルドルと再会します。
この橋が「ニヴルヘイムとヘルヘイムを結ぶ国境」と原典に書かれているわけではありません。ギョッル川を越えてヘルへ向かう道にある橋として描かれています。
バルドルを帰す条件を示したヘル

ヘルモーズはヘルの館で、バルドルをアースガルズへ帰してほしいと願います。
ヘルが示した条件は、世界中の生きているものと死んでいるものが、すべてバルドルのために泣くことでした。誰もが彼を愛していることが証明されれば、帰還を認めるというのです。
神々の使者が世界中を巡ると、人間、動物、植物、石や金属までがバルドルのために泣きました。ところが、洞窟にいたセックという女巨人だけは泣くことを拒みます。セックはロキが姿を変えた存在だったと考えられています。
条件が満たされなかったため、バルドルはヘルにとどまりました。
この物語のヘルは、気分だけで死者を解放する存在として描かれていません。彼女は帰還の条件を提示し、その条件が満たされたかどうかによって判断しています。
ヘルとラグナロク後の世界

『スノッリのエッダ』では、ラグナロクの戦場へロキが現れ、ヘルのもとにいる戦士たちが彼に従うと語られています。
ただし、女神ヘル自身が戦場へ出るとは明記されていません。ラグナロクでヘルが滅びるのか、生き残るのかも原典には記されていません。
世界が再生した後、バルドルと彼を殺したヘズはヘルから戻り、生き残った神々とともにイザヴェルで過去の出来事を語り合います。
バルドルがヘルから戻る場面は、死が完全に消えるという説明よりも、古い対立を越えて新しい時代が始まる象徴として読むことができます。これは物語から導ける解釈であり、原典が意味を直接説明しているわけではありません。
ラグナロクを生き残る人間と神々は、以下の記事で整理しています。
ラグナロクの生き残りは誰?人間と神々、ニーズヘッグの解釈を整理
北欧神話のヘルに関するよくある質問

北欧神話のヘルとは誰ですか?
ロキとアングルボザの娘で、フェンリルとヨルムンガンドのきょうだいです。『スノッリのエッダ』ではオーディンによってニヴルヘイムへ送られ、死者の行き先を定める役割を与えられます。
ヘルは女神ですか?
現在は「死の女神」「冥界の女神」と紹介されることが一般的です。『スノッリのエッダ』ではロキの娘で、死者の領域を治める強い権限を持つ存在として描かれています。ただし、本文でアース神族やヴァン神族の女神として分類されているわけではありません。
ヘルは何の神ですか?
死者の領域を治め、送られてきた死者の居場所を定める存在です。死そのものを発生させる神や、全死者の罪を裁く神としては説明されていません。
ヘルに行くのは悪人だけですか?
悪人だけではありません。『スノッリのエッダ』では、病気や老衰で亡くなった者がヘルへ送られると語られています。
ヘルとヘルヘイムは同じですか?
現在の解説では、ヘルを存在の名前、ヘルヘイムを領域名として使い分けることがあります。エッダでは、Helという同じ言葉が存在と場所の両方を指します。
ヘルとニヴルヘイムは同じ世界ですか?
完全に同じ世界とは断定できません。ヘルがニヴルヘイムへ送られたという記述から、ヘルの領域がニヴルヘイムに含まれる、または重なっているという解釈があります。
北欧神話のヘルと英語のhellは関係がありますか?
語源的なつながりがあります。ただし、北欧神話の死後世界とキリスト教の地獄は同じ概念ではありません。
ヘルはバルドルを生き返らせられたのですか?
ヘルは、すべての存在がバルドルのために泣けば帰還を認めるという条件を示しました。原典は、ヘルが自由に死者を蘇生させる能力を持つという形では説明していません。
ヘルはラグナロクでどうなりますか?
女神ヘル自身の結末は、原典に明記されていません。ラグナロク後にはバルドルとヘズがヘルから戻ります。
北欧神話の女神と死者の国ヘル|まとめ

- ヘルはロキとアングルボザの娘で、フェンリルとヨルムンガンドのきょうだい
- Helという言葉は、死者を治める存在と死者の領域の両方を指す
- 『スノッリのエッダ』では、オーディンによってニヴルヘイムへ送られた
- 病気や老衰で亡くなった者の行き先を定める役割を持つ
- 半身が青黒く、もう半身が人の肌の色をしていると描写される
- ヘルに行く死者がすべて罪人というわけではない
- ヘル、ヘルヘイム、ニヴルヘイム、ニヴルヘルの境界は原典で固定されていない
- バルドルを帰す条件として、世界中のすべての存在が泣くことを求めた
- 女神ヘルがラグナロクでどうなるのかは明記されていない
- ラグナロク後、バルドルとヘズはヘルから戻る
北欧神話のヘルは、恐ろしい外見だけで説明できる存在ではありません。彼女は死者の領域を治め、神々の願いに対しても自らの条件を示す支配者です。
死者の国ヘルも、悪人だけが罰を受ける地獄として統一された場所ではありません。ヴァルハラやフォールクヴァングと並ぶ北欧神話の複雑な死後観の一部です。
ヘルという存在と場所の二つの意味を知ると、ロキの子どもたち、バルドルの死、ニヴルヘイム、ラグナロク後の再生が一つの物語としてつながって見えてきます。
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